特別な祝い日 〜 聖人の祝日  C年 2016   グイノ・ジェラール神父の説教



C年

特別な祝い日

聖人の祝日




聖家族の祝日
神の母の祭日

主の公現の祭日
主の洗礼の祝日


      聖家族の祝日 C年    20151227日  グイノ・ジェラール神父

        サムエル上1,20-2224-28  1ヨハネ3,1-221-24  ルカ2,41-52

   聖家族を祝うこの日に当たって、教会が提案している今日の福音の話は、私たちを惑わせます。 何も言わずにイエスは行方不明となり、彼の両親は死ぬほど心配しました。 この話は数日前に私たちが味わってきた、ベツレヘムの馬小屋の穏やかで平安な雰囲気から遠く離れています。 イエスは両親から逃れることによって、新たな行動を現しました。 マリアとヨセフは、それに全く慣れていないうえに、準備もしていませんでした。 それゆえイエスは不安を抱いている両親の苦悩に同情せず、ヨセフとマリアの心配を理解する代わりに、厳しく両親に答えます。 そして、イエスが言い訳するために答えたこの説明は、マリアとヨセフをもっと惑わせます。 20年後、イエスが大人になってからも、彼の親戚の人々、特に「彼の兄弟姉妹」と福音が呼ぶ人々は、イエスを全く理解できず、2回続けて無理やりイエスをナザレに連れ戻そうとして、彼の宣教の使命を終わらせようとしました(マルコ3,213,31)。 イエスにとっては実際の親戚の人々よりも、自分に従って神の言葉と自分の教えに耳を傾ける人たちが家族です。 「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」(マルコ3,35)と、親戚の人々に対して、イエスは権威を持って厳しく断言します。 乳飲み子のイエスが神殿に奉献された時、年寄りのシメオンはマリアの心が剣で刺し貫かれることを見事に預言しました。 十字架上でイエスは母マリアと自分を結んでいた絆を完全に切り離しました。 そして、ヨハネがマリアの新しい息子となり、マリアはヨハネの母となったのです。

   今年の10月にローマで「家庭のシノドス」に参加した様々な国の司教たちは、世界中で大勢の家庭が分裂していること、どこの国でも子供たちの教育が問題になっている、そして両親と子供の間、また夫婦の間のコミュニケーションが途絶えていることをよく知っています。 確かに、熱心なキリスト者の両親が中々自分の子供に信仰の賜物を伝えることができないのは、両親の心が苦悩と心配の剣で刺し貫かれているからです。 20世紀に、教皇レオ13世とピオ11世が、すべてのキリスト者に「聖家族」を模範として提案した時、彼らはいつか世界中の家庭を脅かしてくる、重大な危険性を感じていたに違いありません。 21世紀になり、この教皇たちが正しかったことが証明されました。

  家庭と言えば子供が通る通路のようなものです。 確かに、家庭を通して人はこの世に生まれます。 そして、社会の中で自分の立場をとるために、人は家族から出て、段々独立していくのです。 大人になることによって、自然に両親のコントロールから逃れて、子供たちは自立します。 その時、大抵の両親は子供の選んだ選択に戸惑わされ、何をし、何を言ったらよいのか、解らない状態になります。 このように、12歳になったイエスは、自分の時代の社会の中で正しい立場をとるために自立しました。 母マリアに答えた説明によって、今から後、自分が父なる神だけに依存していることを、イエスははっきりと現しました。 「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」と権威を持ってイエスは断言しました。 それにもかかわらず、イエスはヨセフとマリアに従順に仕えて暮らしました。 自立すること、神だけに依存すること、この2つの状態は矛盾ではありません。

   地上の家族が、私たちは「この世を創る前から私たちを選び愛している神」(エフェソ1,41ペトロ1,20)の子供であることを、忘れさせてはいけません。 ですから、自分の家族を愛し続けながら、私たちが父なる神と家族的な絆を結んで生きることの大切さを、イエスとヨセフとマリアの聖家族が私たちに教えています。 実際に私たちは神の家族であり、イエスの兄弟姉妹であり、そしてマリアは私たちの唯一の母です。 しかしそれについて私たちは充分に自覚しているでしょうか。 いつくしみの特別聖年の間に、「私たちは本当に神の子供であることを」(参照:1ヨハネ3,2)を確かめましょう。 はい、そうです。 私たちは聖なる家族です。 神の賜物である私たちの命は、既に永遠の命ですので、どうしても父なる神の栄光に仕えなければなりません。 聖霊の光を受けながら、これについてゆっくりと考えたいと思います。アーメン。



      神の母聖マリア(祭日)C年  201611日 グイノ・ジェラール神父

                民数記 6,22-27  ガラテ 4,4-7  ルカ 2,26-21

   ロザリオの神秘を黙想する時に、私たちは「神の母、聖マリア、私たちのために祈ってください」と、無意識に言っています。 これこそ今日の祝日の名前です。 神の母、聖マリアの傍に集まっている私たちは、彼女から黙想すること、感謝すること、行動することを学びましょう。

    地上にいた時に神の言葉を身につけ、マリアは黙想しました。 しかし、天においてもこれをし続けるのです。 神が行われることについて、そして神ご自身について,生まれた日からマリアは自分の眼差しを注いでいます。 地上で、マリアは日常の生活の「出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていました」(ルカ2,1951)。 天に昇ってから、マリアは神の目と心で、世界中で行われている出来事のすべてを見、同様にこれらの出来事を通して、どのように神が私たちの救いを実現するかを黙想します。 私たちも神の目で人々を見、また日常の出来事を神の言葉の光で理解するように、神の母であり私たちの母であるマリアは、私たちを誘います。

   全てにおいて神をみつけるので、マリアの心は感謝の祈りで溢れています。 私たちが神の愛する子供となるために、キリストがご自分の血によって私たちを清めたことや、私たちに聖霊の賜物を与えたことを見ながら、マリアは大いに喜ぶのです。 すべての人の母となるために神が自分を選んだことをマリアは絶えず神に感謝します。 「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているので」(ローマ5,5)神の母マリアは、一緒に絶えず神に感謝するように私たちを招きます。 また、私たちが死を迎える日まで、マリアが私たちのために祈っていることを神に感謝しなければなりません。 更に、神に向かって祈る時、特に神の助けや赦しや慈しみを願う時に、母マリアも一緒に祈り、乞い求めることを感謝しましょう。

   恵み溢れるマリアは「いつくしみの母」と呼ばれています。 確かにマリアは「神の母」であり、聖霊によって彼女の存在はあらゆる面で豊かな恵みで満たされ、照らされているのです。 信仰と愛のうちに私たちが「慈しみと憐れみに満ちている父なる神」(参照:エフェソ2,4)を仰ぎ見るように、マリアは自分の慈しみによって誘います。 なぜなら「神が慈しみ深いように」(参照:ルカ6,36)また「神は聖なる方であるように」(レビ記 20,26)私たちも慈しみ深い者、聖なる者になるように召されているからです。

  ですからこの新しい年を通して、喜びのうちに、「いつくしみの特別聖年」の恵みの豊かさを身に付けましょう。 謙遜に、互いの愛のうちで、神によって。 神の栄光のために生きることを母マリアと共に学びましょう。 私たちが母マリアを模範とする恵み、神の言葉に耳を傾けることや神の赦しと慈しみへの飢えと渇きを神に願いましょう。 また、神の母マリアの保護のもとで、聖霊が私たちを「愛の完成に」、「慈しみの充実に」まで導きますように、切に神に願いましょう。 アーメン。



      主の公現の祝日C年    201613日    グイノ・ジェラール神父

           イザイ 60,1-6    エフェソ 3,2-3,5-6   マタイ 2,1-12

   「言は肉となって、わたしたちの間に宿られました」(参照:ヨハネ1,14)。 エフェソ教会の信徒たちに、聖パウロが気づかせようとするキリストの神秘を受けとめるために、預言者イザヤは私たちを誘います。 ご自身をすべての国に啓示するために、神は私たちの間にお生まれになりました。 東方から来た占星術学者たちは、この偉大な神秘の最初の証し人であり、最初の礼拝者です。 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛されました」(参照:ヨハネ3,16)。

   この啓示は「地を覆い、国々を包んでいる暗闇」を追い出す大きな光です。 世の光であるイエスは私たちを「光の子」とするためにこの世に、お生まれになりました(参考:ヨハネ2,36、エフェソ 5,8)。 「兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。  あなたがたすべて光の子、昼の子だからです」(参照:1テサロニケ 5,5)と、聖パウロは度々繰り返します。 また「神の光のうちに、わたしたちは光を見る」と詩編3610節も同じことを教えています。  即ち、私たちは神の内に秘められている物事を見るように召されています。

   小さな星の光に従うために、占星術学者たちは 自分の国から離れました。 長い旅の終わりに彼らは、世の光であるイエスを発見します。 マリアの子の前に占星術学者は深くひれ伏してから、持って来た贈り物を捧げ、そしてイエスを礼拝します。 すると直ぐに、彼らの心は大きな喜びで満たされています。 預言者イザヤの約束によれば、この喜びが人の心を開き、膨らませ、「晴れやかにします」(イザヤ60,5)。 占星術学者たちは、持って来た物をイエスに与えましたので、空の手で自分たちの国に戻りますが、彼らの心は神の現存と神の救いが与える喜びで満たされています。 彼らにとって、帰りの道は喜びの道となり、「この喜びを彼らから奪い去る者はいません」(参照:ヨハネ16,22)。

   主イエスとの出会いは、いつも喜びと希望の泉です。 イエスと共に私たちが歩んでいる救いの道は、光の道であり、その喜びは私たちの望みを遥かに超えて満たすのです。 イエスは何も願いません。 イエスは贈り物も望みません。 ただ、すべての人にイエスが与える救いの喜びを証しするために、私たちが忠実に彼の傍に留まることしか願いません。

   ですから、いつくしみの特別聖年の間、イエスの傍に長く留まるために祈りの時間を見つけるように努力しましょう。 主イエスに捧げる時間は、占星術学者の黄金に等しい捧げものです。 聖櫃の前で聖体礼拝する私たちの身体的な現存は、占星術学者の没薬に等しい捧げものです。 私たちの唇と心から湧き出る祈りは、占星術学者の乳香に等しい捧げものです。 祈りの時間が終わると、私たちは空の手で教会から出るでしょう、しかし、神に自分自身を捧げたので、私たちの前に神は喜びと希望の道を開くでしょう。 出来るだけ、この喜びと希望の道に大勢の人々を連れて来ることが出来ますように。

   イエスは「まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(ヨハネ1,9)と聖ヨハネが宣言します。 占星術学者たちと同様に私たちも全人類を救い、神の栄光と慈しみによって輝かせるイエスをすべての人に知らせましょう。 アーメン。



         主の洗礼 C      2016110日     グイノ・ジェラール神父

           イザヤ40,1-59-11  テトス2,11-143,4-7  ルカ3,15-1621-22

   「主の洗礼」の主日で、クリスマスの季節を閉めくくります。 「主の降誕」、「主の公現」と「主の洗礼」の祝日によって、人間になった神の神秘が単純に謙遜に三回続いて、私たちに啓示されました。 私たちの間に留まるために、そして私たちの日常生活を分かち合うために、神は人間になりました。 全人類を苦しめる悪、罪と死を背負うために、神は私たちと同じように人間になりました。

   ヨルダン川のほとりで、洗礼者ヨハネの手から洗礼を受けようと願っている人々の行列に、イエスも静かに並びました。 回心するために神の慈しみを信頼している罪びとのグループに、罪のないイエスが静かに加わります。 ヨルダン川の水に潜り込むイエスは、具体的にそして神秘的に神の慈しみを現わします。 洗礼者ヨハネの洗礼を受けた人たちは、皆イエスによって清められ、同時にイエスはこの世の全ての罪を背負って、ヨルダン川の水から出て来ます。

   洗礼を受けた直ぐ後にイエスは祈っていたと、聖ルカは教えています。 洗礼者ヨハネとご自分の内に、神が始められた救いの業をイエスは神に感謝します。 この祈りに応えて、天が開きます。 聖霊は目に見える姿でイエスの上に降ってきます。 そして、神ご自身がイエスについて証しするために、ご自分の声を聞かせます。 「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者です」(ルカ3,22)。 その時から、父なる神に遣わされた者として、イエスはご自分の使命を行ない始めることが出来ます。 ヨルダン川の水の洗礼によって、イエスは受肉になったその神秘性と目的を啓示しました。 聖パウロがテトスに送った手紙の中で、この神秘を説明します。 「わたしたちの救い主イエスは、神の慈しみと人間に対する愛を現わしました。 洗礼の水の中で聖霊によって、イエスはわたしたちを新しく生まれさせ、新しい人として造りました。 …こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおりに永遠の命を受け継ぐ者とされたのです」(参照:テトス3,4-7)と。

   ですから私たちは、愛する子供として父なる神に向かわせるために、私たちを神の愛から妨げるものを切り離す必要があります。 この「神の子」としてのや井戸を示す努力は、私たちが生きている限り、毎日新たにする努力です。 キリストはご自分の祈りで私たちを包むことによって、私たちが益々神を愛する子供となるように教えています。 ご自分の復活によってイエスは、私たちのために天の門を大きく開きました。 そして、私たちの上に豊かに聖霊を注がれました。 従って、心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛することは、私たちにとって容易になりました。

  「神のいつくしみの特別聖年」を通して、益々神の子として生きるように努力しましょう。 洗礼を受けた時に、私たちは神の愛の内に沈み込みました。 ですから、「父なる神が慈しみ深いように、私たちも慈しみ深い者となりましょう」(ルカ6,36)。 その上、洗礼を受けた恵みを毎日神に感謝し、更に復活祭の夜、この貴重な秘跡の恵みに与る洗礼志願者のために特に祈りましょう。 アーメン。



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